世界 2015年 06 月号 [雑誌] pdfダウンロード

世界 2015年 06 月号 [雑誌]

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この雑誌について 現代の諸問題を世界的視野で論ずる総合雑誌
世界 2015年 06 月号 [雑誌]を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
まだ全部読み終わっていませんが、特集の4つの文章は読みましたので、意見を下記します。まず、青井未帆と集団的自衛権問題研究会の文章は、法律的解釈がメインですので、はっきり言って面白くないですし、特に青井未帆の文章は法律用語解釈に終始しており、細かくは理解できません(この人の文章は前にも「世界」に出ていましたが、その時は、もっと分かりやすく面白かったと記憶しています。日本語の法律は一般人に理解をさせないように、ことさら難しい文章や言い回しを使用していますので、その影響かもしれませんね。何せ、憲法以外のほとんどの法律は、明治・戦前からの引継ぎで、戦後はそれへのパッチワークがほとんどだということですので、精神的には明治や江戸時代的精神に満ち溢れているのでしょうから、その法律解釈は現代人に難しいのも当たり前かもしれません。また、現代日本語もよく理解できない安倍晋三や石破茂のような「戦争を知らない12歳の軍国少年」が多少とも関わった法律(実際は「賢い」高級官僚が難しく作成しているのでしょうが)が一般の人の理解の及ぶところではないのは理解できます)。それに比べて、民主党で防衛大臣を務めた北沢俊美へのインタビューと渡辺治の文章は分かりやすく、内容も面白いものでした。民主党にもこんなにまともで理性的な人物がいるとは驚きでした。まあ、自民党や維新の党とは違いますから、何人かはまともな人がいるのでしょうが。渡辺治の文章は、自民党や保守反動、財界の戦後の憲法つぶし・戦後民主主義体制つぶし等の策動に対する反撃についてごくごく簡単にまとめていますので分かりやすですが、若干公式共産党的匂いが気になるところではあります。題名は、日本政治思想史研究で有名な石田雄(東大名誉教授、92才)の最近の著書から取らせていただきました。最後に、伊丹万作(伊丹十三の父親で、大江健三郎の義父、1900年1月2日 - 1946年9月21日)の文章の一部を下記します(青空文庫「戦争責任者の問題」より。1946年初出)。結構有名な文章です。私も誰かの引用で一部しか読んでいませんでしたが、1946年にこのようなことが言えるということは、伊丹万作という人物はなかなかの人物だったのでしょう。伊丹十三や大江ゆかりの父親ですから、それなりの人物ということはわかりますが。今、自民党や維新の会等に投票している人々、へイトスピーチをしている人々、本を読まずにその本の書評を書いている人々等、満身創痍ながらもここまで保たれてきた戦後民主主義体制に異を唱える人々に捧げます(若干長いですし、言葉使いも今と少しばかり違いますが、文章は平易ですので)。「だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」

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